パン作りについて書いていたのだが、書けなくなってしまった。
というのも、栗原はるみさんの季刊誌(?)なのでしょうか、新しい号を本屋さんで立ち読みしてたら、栗原さんが考案された、「こねずに出来るパンのおいしい作り方」について記事が数ページ割かれており、試作を100回やるつもりだった、と記されていたからでした。
プロは100回、試作する…。
だったら自分ごときが何を言えるだろうかと、躊躇したからでした。
私が作った食パンの回数といえば、のべにしたら50回から60回くらいです。
毎回、出来映えは違っていました。
その日の温度にもよりますし、こね具合にもよりますし、発酵時間のかけ方の違いにもよりました。
基本的にお砂糖は出来る限り使いたくないので、不使用にしていましたが、それが発酵をよくしてくれる媒介でもあるので、生地の膨らみ具合が不満足であれば使ってみたりと、小さなマイナーチェンジはしてきました。
不思議と、ホシノ天然酵母で作るパンは一次発酵でそれなりに生地が1.5倍から2倍程度に膨らめば、二次発酵はどうあろうとも、焼くとおいしく仕上がりました。
そしてなぜか、焼きたてよりも、焼き上がって冷めたものをスライスして、網で焼いた方が圧倒的においしく、二次発酵での膨らみが悪くても、それはそれで目の詰まったパンとしておいしく食べられるのでした。
結局、自分がどんな食感のパンが食べたいか。
正解はないと見ました。
レシピはその人の生活スタイルが決めます。
ある程度、いそがしくして生きていると、パンの発酵を見守っている時間はそれほどありません。
ある程度、ラフに作れるという事が、条件に入ってきます。
思ったことがありました。
昨今、時短レシピがもてはやされているようなのですが、それはどうしてなのだろう?
もちろん現代人はとても忙しいので、お料理が短時間で出来れば、ありがたいというのはわかるのですが、改めて何のためにそれが必要なのだろう?
明日はおいしいパンが食べたいと思い、それなりに意気揚々と、食材のストックケースから小麦粉の袋を取り出して、はかりを出して、ボウルに粉を振り入れて計量して、塩、酵母を加え、別に計量カップに水を用意して、注ぎながらこねてゆく日。
いま、自分はこんなことをしている場合なのかっ!?、と思いながら、現実逃避するために生地をこねる日。
心がもやもやして落ち着かない時に発作的にパン生地をこねたりする日もありました。
パンを作るシチュエーションとは、実にとても様々です。
思うのは、いずれにしてもその、生地をこねるという無駄な時間が人に思い出を作り、豊かな時間を提供し、また、なぐさめているという事でした。
合理性だけに還元されない時を過ごす事が、実は人に豊かな肥料を与え、新たな未来を作り出すのだろうと思います。